「安定した社会」という経済活動の基盤を守ろうと企業が社会課題への対応を急ぐなか、日本の近代経済発展に長らく根差していた、利益と公益の両立に基づいた資本主義の考え方が再び注目を集めている。
野村は2021年末にオンラインイベント「ESG NOW!」の一環でポストコロナ時代のESG経営に関するパネルディスカッションを実施。社会課題解決への糸口として日本流の終身雇用慣行が再評価されているなど、ESGの「S」をめぐる最新動向について、外部有識者を迎えて意見交換を行った。本稿ではその主な論点について振り返る。
新型コロナウイルス問題は「S」課題への注目を高めた。それは、健全な経済は健全な社会に支えられていると同時に、社会は経済を基盤としていることを改めて浮き彫りにした。コロナが蔓延すれば経済が回らない。経済が回らなくなれば、最も弱い立場の人々から職を失っていく ―。コロナ禍で従業員の健康や安全、労働環境がリスクにさらされたことをきっかけに、雇用・人材・労働管理に関連した方針や施策を見直す企業が相次いでいる、とパネル登壇者たちは口を揃える。
モデレーターを務めた野村のアジア太平洋地域のエクイティ・リサーチ共同ヘッド、Jim McCaffertyは、近代日本の資本主義に長らく根付いていた「合本主義[1]」の考え方は、米国の経済学者ミルトン・フリードマンが主張し欧米諸国で広まった株主資本主義の対局にあるのではないか、とパネルディスカッションを始めた。日本企業の多くが、株主のみならず、従業員や顧客、社会等、幅広いステークホルダーとの関係を重視してきたことについて、この企業姿勢が1980年台後期における外国人投資家による日本株の買い控えにつながったと振り返った。しかし、コロナ禍で従業員ファーストを実践する企業への評価が高まる今、日本流の事業経営の在り方がふたたび脚光を浴びていると述べた。
さらに、「日本資本主義の父」と呼ばれた実業家、渋沢栄一が目指した公益を追求する『道徳』と、利益を求める『経済』の両立は、今日のSDGs(持続可能な開発目標)やCSV(共通価値の創造)に通ずる考え方で、ESG経営を実践する企業にとって学ぶべき教訓が多いのではないか、とパネル参加者に意見を求めた。
まず、英国立シェフィールド大学社会科学部東アジア学科で日本研究の教鞭を執るPeter Matanle氏が、20年前に実施した日本企業の雇用制度に関する研究について言及。対象となった大手企業6社の経営層130人へのインタビューでは、従業員の能力発揮を促すためには、長期にわたって人材育成・開発する必要がある、と当時の雇用側が考えていたことを明らかにした。
また、日本の従業員勤続年数は平均でも13年以上と、英国(8年)、米国(6年)、中央ヨーロッパ・西ヨーロッパ諸国(9-11年)と比較して格段に長く、安定した長期雇用が労使双方のメリットにつながることを示唆していると分析した。
「(日本企業が実践してきたように)長期に雇用を保障し、人材育成・開発を行い、従業員がやりがいをもって最大限の能力を発揮できる環境を整備することは、結果的に持続的な成長の実現につながる、という教訓だろう。」(Matanle氏)
野村ホールディングスのコンテンツ・カンパニー長兼サステナビリティ推進担当執行役員、鳥海智絵も同様の見方を示し、従業員の心理的安全性を高め、帰属意識をもたらす日本流の終身雇用は、ESGにも通じる慣行だろう、と語った。
もっとも、終身雇用は、雇用市場の流動性の低さの原因であり、それゆえ新しい価値を生み出せず、競争力を高められない日本企業が多い、との批判もあるとしたうえで、「コロナ禍の現状においては、これまでの日本式雇用モデルがプラスに作用する局面が増えるのではないか」と述べた。
近年、欧米の後を追うように、株主価値を重視し、利潤と株主配当の最大化を最優先する日本企業も増えた。一方で欧米においては、あらゆるステークホルダーに対して価値を創造し、世の中の役に立たなくてはならないと主張する企業が目立つ。世界で資本主義の在り方が問われ始めた中、雇用の安定を約束し、従業員の帰属意識を醸成しながら、生産性の向上を図ってきた日本の先人たちの組織づくりは周回遅れで同じ場所に向かっているかもしれない、と鳥海は考察する。
非営利団体International Sustainable Finance Centre(ISFC)のCEO、Linda Zeilina氏は、サステナブル・ファイナンスの分野でも、投資先選定・評価において「S」課題への対応に注目が集まっていると指摘。160回に及ぶ産業界との対話をグローバルに実施した結果、コロナ禍で改めて浮き彫りになった社会問題の解決は喫緊の課題だと強調。従業員の健康・安全に配慮した対策を怠ったり、サプライチェーンにおける強制労働や児童労働等の人権侵害を看過した企業は甚大な損失を計上することになる、と指摘する。
実際に、英国を拠点とする大手オンラインファッション小売業者は、2020年にサプライチェーン上の労働管理が不適切であったことが発覚、株価は急落し20億USドルに相当する代償を伴う結果となった。企業がサプライチェーン上の労働供給側と交わす守秘義務契約が隠れ蓑となるケースもあり、問題が表面化しづらい現状に同氏は警笛を鳴らす。
ESGの「S」要因は、行政を含む様々な要素が複雑に絡み合っているため、一律に評価することが難しい反面、優秀な人材や健全な労働力の確保が企業価値向上の源泉であることは間違いない、というのが現代の投資家に共通する認識だ。
また、職場が環境や社会と良好な関わりを保ち、世の中のためになっているかを軸に仕事を選ぶ若い世代が目立ってきたと話し、ESG経営の重要性を繰り返した。
パネルディスカッション後半では男女格差について議論した。「30数年前に野村證券に総合職枠で新卒採用された300人のうち、女性は私を含めてたったの7人だったが、今では役員に6人の女性が登用されている」と語った鳥海。日本が大きく出遅れている女性管理職比率について、終身雇用慣行のもとでは、出産・育児休業の取得による一時的な離職がキャリア形成に影響しているからではないか、と推察する。
野村グループでは、女性活躍推進の一環として、「30% Club Japan」の活動にメンバーとして参画している。意思決定機関における健全なジェンダーバランスは、企業のガバナンス強化、持続的成長の促進、国際競争力の向上、持続可能な日本社会の構築に寄与する、という活動趣旨に賛同したもので、現在25%の取締役会における女性比率や女性管理職比率の引き上げなどを目指している。
前述のMatanle氏の解説によれば、日本女性の労働力率(15歳以上人口に占める労働力人口の割合)は、20歳代でピーク化した後、結婚・出産期に当たる30歳代に一旦低下し、育児が落ち着いた時期に再び上昇、グラフ化するとM字カーブを描くことで知られている。
最近では、このM字カーブの形状に変化が見受けられ、30歳代、50歳代、60歳代を中心に女性の就労は増加傾向にあるが、依然として給与やキャリア待遇において男女格差が残っているのが現状だ。
こうした状況を背景に、ESG投資の分野では、世界最大級の公的年金であるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)がジェンダー平等をテーマとするESG投資指数を採用。これを契機にジェンダー投資への機運が高まっている。(ISFC・Zeilina氏)
SDGsへの貢献を念頭に健全な意思決定を行おうとするすべての企業・団体・組織にとって、ESGは有効な経営手段である、と結論付けたMatanle氏は、次のようなエピソードでパネルディスカッションを締めくくった。
「欧米でも株主偏重からの脱却を図ろうとする動きが広まっている。1980年台の映画・『ウォール街』の台詞 『Greed(欲)is good』は、行き過ぎた株主利益追求を正当化するかのような当時の米国社会を象徴する場面で使われたが、こうした風潮はすっかり過去のものとなった。先日見かけた経済書の書籍タイトルには、こう記されていた ― 『Greed is Dead』。」
[1] 合本主義: 渋沢栄一が唱えた、公益を追求するという使命や目的を達成するために最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方。一部の人に富が集中する仕組みではなく、「みなでヒト、モノ、カネ、知恵を持ち寄って事業を行い、その成果をみなで分かち合い、みなで豊かになる」という道すじを渋沢は描いた。(参考文献 『NHK100分de名著 渋沢栄一 論語と算盤』)
コンテンツ・カンパニー長兼サステナビリティ推進担当執行役員
アジア太平洋地域エクイティ・リサーチ共同ヘッド