ESGとインフレの関係
ESGの要素が、企業経営に対する影響力をますます強めている。昨年来のグリーン政策の採用はもとより、サプライチェーン(供給網)上の人権問題への対応や、株主総会における「ESGアクティビスト(物言う株主)」の台頭など、ESGは実際の企業経営にインパクトを持つようになってきた。グローバル企業の経営におけるESGへの配慮は、更に加速していく可能性が高い。
しかし、ESGの行く手には、大別して2つに分類されるリスクが横たわっている。
本稿では、後者のESGと物価の関係性に焦点を絞り、ESGが「良いインフレ」を生み出す条件を考えてみたい。ESGと物価の関係を検討し、その後、ESG全般の特性を大胆に抽象化した上で、ESGと物価の関係に関するマクロ的な見方を検討した。そこでは、(1)家計のESGへの支払い意思の向上、(2)政府の規制的・経済的手法による介入強化、(3)所得再分配と格差縮小の実現、がESGによる「良いインフレ」実現の要であると整理される。
2020年後半から続く商品価格の高騰では、銀や銅といった触媒・電子機器用途のある金属価格の上昇が目立つ一方、原油や軽油など化石燃料は総じて回復が遅れた。グリーン経済への道のりはまだ不透明な部分も残るが、大きな方向性として、ESG加速がインフレ的であると意識された結果と言えるだろう。
一方、具体的なESGの取組みに根差したインフレ要因もある。再生可能エネルギーの導入による電気料金の上昇だ。
ESGの急先鋒とも言える気候変動対策において、エネルギー分野の取組みはかなりの加速を見せている。幅広い産業に供給されるエネルギー分野だけに、その脱炭素化が急務であることは国際的な共通認識と言えよう。
日本でも、再エネの大量導入に向けて着実に議論が進んでいる。7月下旬、経済産業省が国のエネルギー政策の方向性を定める次期「エネルギー基本計画」(案)を公表した。温室効果ガス排出削減に向け2030年度の電源構成を見直し、太陽光など再生可能エネルギーの比率を36~38%(現行目標は22~24%)に引き上げる内容だ。
問題は、再エネ発電比率の積み増しにより利用者が負担する賦課金が増加することだ。2019年度の状況を振り返ると、再エネ発電比率は18.1%(水力発電含む)、再エネ賦課金は2.4兆円だった。2030年の再エネ発電比率が37.5%まで上昇した場合、一国全体の発電量が不変とすると、再エネ賦課金は5兆円程度まで膨らむことになる(2030年における単年度の負担額)。電力の需要者たる企業・家計の負担は毎年徐々に増加していき、約10年後には2.5兆円ほどの追加負担を強いられる。直線的に負担が増すと考えた場合、年あたり2,500億円程度の負担増となる。
だが、この負担増による消費者物価指数(CPI)への影響は、2030年に累積で0.36%ポイント程度の押し上げに止まると試算される。消費増税やGoToトラベル事業、携帯電話料金の引き下げといった大きな価格変動に直面してきた日本の家計からすれば、この再エネ導入による物価上昇は大したインパクトではないだろう。
ただ、ESG要素を重視した結果のインフレが、社会の動揺に結びついた実例もある。2018年に始まったフランスの「黄色いベスト運動」は、地球温暖化対策のため年々引き上げられる燃料税への抗議がその背景の一つだった。CPIに反映されたエネルギー価格(厳密には電気・ガス・水道価格)を見る限り、フランスのエネルギー価格がかつてないスピードで上昇したわけではない。所得格差が拡大する中で、生活必需品であるエネルギーの価格が政策的に上昇していくことが、政治的不安定性を生んだと解釈すべきだろう。
サステナブル(持続可能)な経済・社会の構築への移行過程においては、物価・所得の変動は必須といえる。黄色いベスト運動にみられるような動揺が移行過程で本格化した場合、ESGの取組みは失速せざるを得ないだろう。この意味において、ESGの取組みは、雇用確保・所得再分配を通じた格差社会の是正と、切っても切れない関係にある。
米バイデン政権は、コロナ禍を起点とした経済のデフレ化を財政出動によって回避するとともに、法人課税の強化で所得再配分を進め、さらにグリーン政策推進による良質な雇用を提供することによって、格差社会の是正を目指している。こうした諸外国の経験は、日本において大いに参考になるだろう。例えば、消費者庁による物価モニター調査では、日本の家計で負担感が高まったと感じる品目として、生鮮食品(46.2%)に次いで光熱・水道費(34.2%)が第二位に登場している。欧米に比べれば日本の所得格差はマイルドと考えられるが、それでも気が抜けないデータと言える。ESG推進のインフレ圧力が、かえって家計のマインドを冷え込ませてデフレに陥らないよう、政府には所得分布を意識した丁寧な施策が求められる。
最後に、ESG一般と物価の関係を整理したい。ESG一般の取組みを「企業が自社と経済・社会・環境の関係をより深く理解し、ステークホルダーに情報開示するプロセス」と理解しよう。このプロセスに従う場合、財務リターン(金銭的利益)のみを追求するよりも事務的なコストが嵩むことになる。このESGコストを販売価格に転嫁できるかが、ESGが「良いインフレ」を生むか否かの分水嶺になる。
ESG関連費用を販売価格に転嫁するには、それを受け入れる社会の素地が必要である。例えば、(1)ESGに取り組む企業を前向きに評価する社会的選好や、(2)低所得者への所得再分配を通じた経済の好循環が必要になる。この素地を整備するため、政府は規制的手法・経済的手法を総動員して、ESGの取組みを支援することになる。国際協調の側面も併せ、ESGが推進される世界における政府の役割は拡大していくだろう。
『ESGリサーチ(政策):ESGとインフレの関係』 2021/6/7 より
野村證券 シニアエコノミスト
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野村證券 シニア・エクイティ・ストラテジスト
野村證券 ESGチーム・ヘッド